カシオペア座の夜

〜 東日本大震災に寄せて 〜

 

※東日本大震災から半年後に書いたものです。

 

 石巻が嫌いだった。小学生ぐらいまでは、何か石巻生まれである “誇り” のようなものを持っていた気がする。しかし、中学生になり将来へのビジョンがはっきりしだすと、だんだん窮屈なだけの町だと感じるようになっていた。

 

「石巻に居ては夢が叶わない!」

 

 求めているものが、演劇やダンスといった表現をする世界だったからだ。その術を教えてくれるところや提供できる場がない。その世界で輝いている人々は、みな都会にいる。一刻も早く都会に出たかった。

 仙台に次ぐ宮城県第2の都市とはいえ、電車が1時間に1~2本の田舎町だ。大勢の人がいる都会よりも、人格や生き方という点において個人が尊重されにくい。何か人と違ったことをすれば、瞬く間にその噂は広がり、特異な目で見られることもある。出る杭は打たれるのだ。

 

 中学では新体操をやると決めていた。でも中学に新体操部はなく、近くに教室もいない。休日には指導者を求めて、片道2時間ほどかけて仙台の秋保へと通った。

 自分のやりたいことをやっているだけで「調子に乗っている」などと言われ、いじめられる始末。田舎かどうかは関係なく、いじめっ子や私自身に問題があったのだろうけれど、田舎だから受け入れてもらえないのだという思いが強かった。

 コミュニティーが狭いゆえ、結婚や離婚といった話題も、都会で話されている感覚より “ゴシップ感” が拭えない。現在アラサーで独身の私が、今も石巻に住んでいたとしたら、お節介なおばさんが1人や2人出てきたことだろう。

 

 都会の人は冷たく、田舎の人たちは温かいとよく言われるが、私にとっては逆だった。色々な人の受け皿がある都会の方が、よっぽど温かい。好きだったものといえば、冬になれば雪が積もり、真っ白な世界に目を奪われながら、雪をギュッと踏みしめる音を楽しむこと。そして星が綺麗に見えることぐらいだった。

 

 早く都会に出たい! とにかく自分の人生は都会に出なければ花開かないと思っていたので、高校生活にいたっては、ただただ3年間という時間に耐える日々。これといった思い出も残ってはいない。それほど私の心は石巻に背を向けていた。

 

 高校卒業後、千葉県浦安市へと引っ越した。椰子の木が生え、リゾート地のように整備された綺麗な町は、東京にも近く、仕事にも遊びにも困らない。夜行バスや新幹線でしか来られなかったディズニーランドも目と鼻の先だ。個性豊かな友だちもたくさんできて、自分の選択は間違いではなかったと思った。ほどなくして、両親も浦安へと引っ越してきたため、石巻とはますます疎遠になっていった。

  震災の記憶

 

 2011年3月11日、午後。

 仕事を早く終えて新浦安駅に着き、地下の駐輪場にいた。

 

「電車の音? いや違う……」

 

 徐々に大きくなる音と揺れに地震だと気づく。しかも大きな地震だ。2段に積み上げられた自転車はレールを外れ、今にも頭上から降ってきそうだ。駐輪場には私以外誰もいない。こんなところで閉じ込められたら大変だ! グラグラと揺れ動く中、手すりにしがみつきながら必死で階段を上り地上に出た。

 立ってはいられないほどの揺れで、ビルの窓は今にも割れそうにバリバリと音を立てている。知らない人たちが互いにしがみつきながらその場に座りこみ、なかなか収まらない揺れに耐えていた。

 

 私が生まれる1年前に「宮城県沖地震」という大きな地震が起きた。生まれた家には、私が物心つくまで歪んだ塀がそのままにしてあったため、大きな地震は起こるものなのだと心に刻んで育った。中学の先生からは、1960年に三陸海岸を襲った「チリ地震津波」について何度も話を聞いていたため、地震や津波には敏感になっていた。地震が起こるたびに、「いよいよ来たか」と腹をくくる。

 

 その「いよいよ」が来てしまったようだ。

 ガタガタと小刻みではなく、ユサユサと大きく揺れる地面に、震源が遠いことだけはわかった。遠くから伝い伝いに来る地震は揺れ幅が大きい。地震の多い地域で育った経験上の勘だ。すると、駅前のインフォメーションセンターで働くおばさんが大声で言った。

 

「震源は東北だって!」

 

 まだ揺れが収まらない。アスファルトは不自然に波打ち、もう本震なのか余震なのかもわからないぐらい長い間揺れている。浦安でこれだけ揺れているのだから、東北はきっと酷いことになっているに違いない。そう思った矢先、目の前で次々と地割れが起きた。

 一旦隆起してからひび割れてゆく地面からは、次々と泥が吹き出し、みるみるうちに道路や広場を泥で埋め尽くしてゆく。車のタイヤは割れた地面に挟まり身動きが取れなくなり、地盤沈下でビルは浮き上がっている様に見えた。

「液状化だ!」。方々から液状化だとの声が聞こえてくる。

 浦安は元町と新町に分かれており、新浦安駅のある新町は、埋め立て地のため地盤が緩い。地面が割れるところなんて見たことがないので、雪山のクレパスみたいに何メートルも奥深くまで割れているかもしれないという、とてつもない恐怖に襲われた。とにかくその割目にハマらぬよう、まるでイカダで浮いているかのように不安定な地面を、必死で逃げ回る。

 

「地球が壊れた……」そう思った。

 

 浦安の地盤が緩いとはいえ、遠く離れた浦安でこの被害なのだから、東北の被害が甚大であることは容易に想像がついた。しかし、その被害が大津波によってもたらされるとは、想像もしていなかった。

 隆起した道、倒れた電柱、傾いた家や店、崩れ落ちたブロック塀、そして辺りを覆い尽くす泥。美しく整備された浦安の町が、無残な姿になっていた。とても自転車で走れる道の状態ではなくなっている。自転車は駐輪場に置いたまま、ズボンの裾をまくり、泥まみれになりながらやっとの思いで家路につく。大きなタンスが一つ倒れてはいたものの、想像よりも家の中は大丈夫だった。しかし水道が止まっていた。

 泥まみれだというのに手足を洗うことすらできない。こんなときに限ってウエットティッシュが見つからない。買いに行こうにも、長蛇の列に陳列棚がガラガラになったコンビニを横目に帰ってきたばかりだ。とりあえず、化粧水を含ませたティッシュで泥を拭う。断水は2週間ほどに渡った。

 

 翌日から、飲み水を配給してもらうため、近くの小学校へと出向いた。2~3時間の列に並びやっと確保ができた。スーパーは買い溜めによる品薄な上、誰もが泥のついた靴で店内を歩き回るため、砂埃が舞って視界は灰色一色だった。数日して、泥の水気がなくなってからは最悪だった。普通ならば心地よいそよ風の日も、浦安は目も開けられないほどの砂嵐の日となる。断水によりトイレも流せないため、外には仮設トイレが立ち並び、悪臭を放っている。しばらくはマスクが手放せなかった。

 

 生活用水は小学校のプールからの汲み上げとなったが、たった1日で筋肉痛になるほど水は重い。バケツ一杯の重みだけでも体を持っていかれるのだから、津波の威力を考えると恐ろしくなってたまらなかった。

 

 今こうやって水の重みを感じ、手がジンジンと赤くなり、砂埃が舞う空気に咽(むせ)ているのは、生きている証拠だ。文句なんか言っていられない。浦安には未だに家が傾いたままで体調を崩す人もいれば、今後長年に渡り、二重ローンに苦しめられる人たちがいる。ただ浦安市民の多くは口々にこう言った。

 

「東北の被害を見たら、文句なんか言っていられない」

 

  望郷の念

 

 本当に、石巻にいる親戚のことを思うと文句は言っていられなかった。1週間ほどしてやっと連絡が取れはじめた。安否が確認できるとともに、空き巣が多いだの、殺人事件が起きたのだの、テレビで日本人の素晴らしさを称賛する放送がされているのとは全く異なる状況が、電話口から聞こえてくる。

 

 最後に連絡が取れた伯父夫婦は、家の1階が浸水したため、2階で救助を待ち、ボートで救出されていた。食べ物を持って2階へ上がる余裕はなかった。もちろんキッチンも浸水し、冷蔵庫は倒れて海水にプカプカと浮いている状態だ。

 

「仏壇の羊羹(ようかん)なら食べられるはず……」

 

 お腹が空いた伯父は意を決して1階へと降り、腰まで浸かる黒い海水の中から、手探りで仏壇に供えていた “真空パック” の羊羹を探しあて、食いつないだそうだ。服や体が汚れてしまうということよりも、とにかく食べ物が必要だった。

 

 震災の翌日には自衛隊が駆けつけたものの、元気だと答えると、救出されるまでにその後2日間も待たされた。ケガをしている人や衰弱している人を一刻でも早く助けるためだった。後に伯父は「正直に元気だと答えなければすぐに助けてもらえたのにな」と笑っていたけれど、2階の窓から見える町の状況に、嘘をつくこともできなかったのだろう。

 

 石巻の状況は2~3日してから電波に乗ったと記憶している。他の地域の情報が次々と入る中、なかなか石巻の状況がテレビに映し出されることはなかった。宮城県の沿岸部では、海抜0m地帯が震災前の3.4倍(56平方㎞)にも拡大。元々海抜の低い石巻はなかなか海水が引かず、取材も入れない状況だった。蓋をあけてみれば、死者・行方不明者が一番多い町として、願わぬ形で有名な町になってしまっていた。

 

 石巻のことが気になって仕方がない。いくら嫌いで後にした町とはいえ、生まれ育った町を無視することは出来ない。震災が起きてからというもの、なぜか石巻の素晴らしいところを次々と思い出しては、今まで感じることのなかった望郷の念に浸る日々だ。

 

「海のミルク」や「海の果物」と言われ、世界で食されているカキは、その80%が石巻にルーツがあると言われている。万石浦(まんごくうら)湾や牡鹿半島に位置する荻浜湾は、カキの種苗・養殖が研究開発された地として有名だ。

 山、川、海を有する豊かな土地は、一番の自慢だろう。かの伊達政宗公は、仙台の青葉山ではなく、港が近い石巻の日和山に城を築きたかったと言われている。それでは水運の力により繁栄し、勢力を増すと危惧した徳川家康が、仙台の青葉山に決定させたとの説もあるほど豊かな土地だ。

 

 お節介だと思うような親戚や近所の人たちも、考えようによっては、気にかけてくれる有難い存在かもしれない。今回のような災害時は特に、家族以外の人たちの助けを借りなければならないときもある。正直、浦安での断水生活では「あそこは水が出たらしいけど、うちのマンションはまだかしらね?」そんな簡単な言葉をかけ合うにも少し躊躇してしまうほど、それまで周囲との交流はなかった。これが田舎であれば普段から当然のようになされていることで、石巻もそうだった。

 

 失わないとそのものの大切さに気づかないことがあるのは、人間の愚かさのひとつだと思う。家族や友人、そして恋人。仕事や物質的なものもそうだ。もっと大切にしておけば良かったと思っても、時すでに遅し……ということはよくある話だ。

 

 子どもの頃、平屋の家に住んでいた私は、2階建ての家に住むのが夢だった。

 嬉しいことに、小学5年生のときに家を建て替えることになり、家の外壁や屋根の色、部屋の壁紙など、両親は全部私に決めさせてくれた。とてもワクワクする体験だった。でも、いざ家を取り壊し始めると、「まだ間に合う! 壊さないで!」そう叫びながら、夜通し泣いていたのを覚えている。新しい家を建てるという前向きな理由であっても、それまであった家を失うという悲しみは計り知れなかった。そのときの自分の気持ちを思うと、今でも涙が出る。

 

 ましてやそれが津波という自然災害によって、家だけではなく大切な人の命をも奪われた人の気持ちは想像に耐えがたい。何とか彼らの心中に近づこうと、自分が経験した悲しみや苦しみを思い出してはみるが、到底及びはしない。

 

 家を建て替える時に、周りにある物を大切にしようと思った。17歳の時に友人が亡くなったときは、それが自分に課せられた使命であるかのように、命を大切にしなければならないと強く思った。そして父親が亡くなったときは、これといった親孝行をしなかった日々を後悔した。それからは、母には甘えられるときは甘え、楽しいことを共有しようと努力をしている。

 

 そばにある物や人々、そして自分を大切にしようという気持ちを持つことはできたけれど、故郷に対し、同じような思いに駆られることはなかった。情けないことに、震災が起きなければ、石巻の良さを振り返ることもなく、私は自分を育んでくれた町を、ただただ否定して生きていったに違いない。

 

 石巻を嫌いな理由のひとつに、東北弁だということもあった。東北出身だと言うと「んだべ。とか言うの?」と、笑われることも少なくない。関西弁や九州弁ではそう笑われることはないのに、東北弁だけなぜか馬鹿にされている気がした。でも震災後、テレビに映し出される人たちは堂々と東北弁で話している。外面なんか気にしている場合でもないし、そもそも気にする必要もないことだ。彼らの素の言葉を聞いて、自分がいかに外面ばかり気にしていたのかを思い知る。

 

 今自分が持っているハングリー精神も、石巻に生まれたからこそ生まれたものだと思う。石巻が悪かったのではない。田舎だから悪かったわけでもない。ただ、求めていたものがなかったというだけのことで、何も嫌うほどのことでもなかったのに……。

 そんな自分を恥じた。

   石巻へ

 

 行方不明だった親戚がDNA鑑定で見つかったとの連絡を受けたのは、震災から5ヵ月が経ってからのことだった。

 通常ならば、すぐにでも葬儀を出すところだが、亡くなった人の多さに加え、お寺も数多く被災し和尚さんも亡くなっている。葬儀を出すのも順番待ちだ。ボランティアでも何でも、もっと早く訪れるべきだったと後悔する気持ちを抱えながら、葬儀に参加するため、母と2人で石巻へと向かった。連絡を受けてから1ヵ月後のことだった。

 石巻は10年ほど前から「仮面ライダー」などで有名な漫画家、石ノ森章太郎の故郷として町興しに取り組んでいる。石ノ森萬画館という施設がオープンし、町には「サイボーグ009」のフィギュアが立ち並ぶ。仙台と石巻を結ぶJR仙石線の特別列車は「マンガッタンライナー」と名付けられ、車体は派手にマンガのペイントが施されている。停車駅を知らせるアナウンスは、無邪気でやんちゃなロボコンの声だ。

 

 沿岸部も走る仙石線には津波が直撃した。未だ開通していない区間がある。先日内陸への移設が決定し、全線開通までには3年はかかると報道されたばかり。今回は「マンガッタンライナー」での帰省とはならず、仙台からバスで石巻へと降り立った。

 東の風に乗って運ばれる、懐かしい磯の香りがした。しかし、少し酸っぱい匂いが混じっていて、母と顔を見合わせた。

 

「やっぱり匂いが違うね。少し臭い……」

 

 しかしそれを感じたのも束の間。鼻が慣れたのか、5分もすれば気にならなくなっていた。大量発生していると言われていたハエの姿も見えない。被害の多い町の様子はまだ見ていなかったが、それだけで辺りが片付きはじめている様子を感じ取る。

 葬儀までは4時間ほど時間があったので、伯母に被害の多いところを見せて欲しいとお願いし、車を走らせてもらった。

 

「どれだけ酷い被害なんだろう」

 

 カメラ片手に、少し好奇心に似た感情を抱く自分に罪悪感があった。何だかただの野次馬の様な気がしてならない。でも育った町なのだから、むしろ見ない方が罪ではないかと、自問自答しながら車へと乗りこむ。

 まずは女川町へと向かった。未だに信号が点かず、交通整理されている場所もあるが車はスムーズに進む。想像よりも瓦礫の撤去は進んでいるようだ。浦安の被害で目が慣れていたこともあり、多少のことでは驚かない。しかし、急に視界が開けると同時に、その思いも一変した。一瞬何かが変だと感じたが、伯母に説明されるまで理解できなかった。

 

「ほら。すっかりねぐなったんだよ」

 町が丸ごとなくなっていたのだ。あまりの変わりように、脳の処理が追いつかない。よく見ると、家の土台が無数にあることに気づく。視線を上げて高台へ目をやれば、襲撃でも受けたのかのように、散々に崩れ落ちた民家が残されていた。

 

 まるで他国の “戦場跡地”。この言葉がしっくりくる。自然の仕業とは思えなかった。町の真ん中には、行き場をなくしたビルが、根元から横転したまま残されている。母はしきりに「信じられない」と口にしていたが、私はただ黙っているだけだった。2人とも目頭が熱くなり、無力さを重みに大きなため息が漏れる。

 津波の恐ろしさを胸に刻み、葬儀場へと向かった。これまで葬儀に参加したことは何度かあったけれど、普通の葬儀と様子が違うのは、参列者が皆一様に疲れているということだった。

 

「○○さんが亡くなった……」

「○○さんはまだ見つからない……」

「家が流された……」

 

 交わされている会話が尋常ではない。

「もうこの半年で何回葬式に出たかわがんねぇな」と、溜め息まじりに伯父が呟いた。落胆の表情とともにある、あれから半年が経った被災地の日常だ。

 

 行方不明になっていた親戚は老夫婦で、見つかったのは奥さんだけだった。数か月も海水に浸かっていた遺体は腐敗が激しく、生前の面影は見て取れない状態になる。時間が経てば経つほど、目で確認することは難しく、見られたものではない。DNA鑑定をしなければならないというのはそういうことだ。

 

 祭壇には骨壺が2つ。家族が対面するときは、すでに火葬された骨の状態。もう亡くなっていると頭では理解していても、実際に遺体と対面しなければ、なかなか気持ちの踏ん切りもつかないだろうに、片方の骨壺には骨すら入ってはいない。本当ならば、2人とも見つかった状態で葬儀をしたかったことだろう。

 遺族は皆、この骨が大切な人の一部だということを、「見つかりました」という報告だけを頼りに自らに言い聞かせるしかない。大切な人が突然奪われただけではなく、遺体に泣きすがりながら別れを告げるような、普通のお別れすらできないのだ。

 

 喪主を務めた息子は、葬儀が終わると少しばかり安堵の表情を浮かべて、当時の話を聞かせてくれた。震災時、彼は車の運転中だった。先をバイクで走る郵便配達員がUターンをしてきた。

「この先の橋は決壊しそうだ。危険だから戻った方がいい」そう彼に伝えると、郵便配達員はそのまま来た道を戻って行った。しかし、彼は郵便配達員の言うことを聞かず、危険な橋を無理して渡った。

 

「間違いなく、郵便の兄ちゃんは亡くなったべな……」

 

 元来た道は、すっかり津波にのみ込まれてしまっていた。一瞬の判断が生死を分けた。

 道を歩いていると、海の方向からその道なりに津波が襲ってくると想像しがちだが、四方八方から囲まれるように襲ってくることもある。津波に道などあるはずもない。何処をどう逃げるのか、一瞬の判断という “運” や “賭け” に大きく左右される。

 

「自分で自分の命を守るしかねんだ。助けに行こうとして亡くなった人がたくさんいっからな。とにかく自分の命を第一に考えればいいんだ」

 

 伝えたいことがたくさんあったのだろう。普段は無口な彼が、人が変わったように話を続ける。そして「常に持って歩くんだよ」と、携帯用の小さな電灯をそっと私に差し出した。

 

 次の日は、子どもの頃の記憶を辿りながら、石巻を歩いて回ることにした。

 かつて石巻の繁華街であった、商店が立ち並ぶ立町通り。シャッター街どころか、シャッターも閉められないほどに歪んだ、無人の建物が寂しく立ち並ぶ。ところどころ瓦礫もそのままに、手つかずの状態だ。買い物客はほとんどおらず、いる人と言えば解体業者ぐらい。人気(ひとけ)をなくした街に、ザクザクとショベルカーの音だけが鳴り響く。

 思い出す立町通りといえば、まだ私が幼い頃に “小さな都会” と感じていた、賑わいのある様子ばかり。店内から漏れる賑やかな音楽と、路面に出ている甘栗や焼とうもろこしの香ばしい匂い。歩けば肩がぶつかるほどごった返していた、活気のある光景だ。毎年夏に開催される石巻川開き祭りでは、立町通りは華やかなパレードで彩られた。石巻の小学生は皆、鼓笛隊としてパレードに参加する。賑やかに沸き立つ街の真ん中を歩くことは、とても誇らしい気分だった。

 子どもの頃に持っていた “誇り” の様なものは、その活気のある街の様子だったのかもしれない。今は前を見ても後ろを振り返っても、当時の誇りは影もない。

 

 歩き疲れた足に鞭を打ち、日和山に登る。東北自慢の河川、北上川に浮かぶ中洲を見下ろす。その奥に堂々と佇む雄大な山々を望む。秋の済んだ空気で景色は輝いて見えた。でも、中洲にあった老舗の劇場や造船工場は跡形もなくなっている。石巻の商業の象徴ともいえる中洲は、完全に無人島へと姿を変えていた。

 

 遠目に見る景色はただただ美しい。こんなに美しい景色だったのだろうか。不思議に思うのも当然だ。嫌いな町だと思い、私の石巻を見る目はいつしか曇っていたのだから。でも今、美しいだけではない、そこに漂う悲しみを感じている。それはこの町の過去を知っているからだ。紛れもなく、私はこの町で生まれたんだ。

  カシオペア座の夜

 

 夜遅く、石巻の隣、東松島市にある母の実家にやってきた。

 築60年になる家の天井は歪み、昔ながらの砂壁は崩れ落ちて、大規模半壊の指定を受けていた。年明け早々には取り壊し、新しく家を建て替える予定だ。母の実家はとても居心地が良かったので、これが最後となると寂しかった。農業を営んでいるため、辺りは田んぼで隣の家とも距離がある。夜になれば真っ暗になり、優しく光を注ぐ星空に自然と目がいった。

 

「星が綺麗だから外で話をしよう」

 

 吸い込まれそうになるほど深い、視界いっぱいに広がる藍色の空を眺めながら、従姉と昔話に花を咲かせた。そして震災に関する話も聞かせてくれた。

「ウチ農家で米だけはあっちゃ。んだがら避難所だけじゃねぐ、自衛隊にも炊き出ししたんだよ。んでも、その米も今年は作らいねんだ。海水入ってしまったがら」

 

 東松島市は航空自衛隊の基地を抱えている。農家を継ぐ従姉のもとに来た婿養子も自衛隊員だ。救助や救援に大活躍してくれた自衛隊員もまた、この地では被災者である。備蓄していた食料や救援物資もすべて海水に浸かってしまい、自衛隊も支援が必要な状態だった。

 

「今職探しが大変みたいだよ。職場も流されだりしてっから、全く違う仕事してる人が多いみたい。例えばさ、スーパーの店員の態度が悪がったりしても、もしかすっとこの人も家が流されでるがもしんねぇし、職ば失って慣れないことしてんのがもしんねっちゃ。んだがら強気な態度には出られねんだよね。けっこう気使うよ」

 

 職を失っている人もたくさんいる。震災から月日が経ち、最近は仕事についての話題が多くなってきているという。石巻や東松島での最近の就職率は、若い20代よりも40〜50代の方が高いらしい。おそらく、若ければ少し離れた仙台まで仕事をしに行ったり、ほかで雇ってもらえたりするのではないかと面接する側が思うのだろう。誰もが切羽詰った中で職探しをしている。仕事に対する能力以前に、家族を養う立場にいる人、そしてほかでは雇われにくいだろうなという年配の人が採用される。被災地ならではの配慮や同情が、採用基準となっているようだ。

 

 星を見ながらの話は尽きない。北西を見上げていた視線を右手にずらす。

 

「あっ! カシオペア座だ!」

 

 東の空に煌々と輝く木星の少し左。5つの星で “W” を模った、秋の空には見つけやすい星座。子どもの頃、よく見つけてはじっと眺めていたのを思い出す。一瞬母の実家ではなく、子どもの頃に暮らしていた家の庭にいる錯覚に陥る。

 

 今まで帰省しても星に目を向けることはなかった。早く帰りたいという思いにだけ捕らわれていたからだろう。でも今回ばかりは、必死に幼い頃の記憶を辿ったことで、この地を嫌いだと感じる前の、子どもの頃の気持ちにタイムスリップした。子どもの私が、夜の星空へと顔を上げさせてくれた。悲しい状況を見た後のご褒美かのように、美しい星空が広がっている。

 

「カシオペア座ってどんな星なんだべね」

 

 ずっと星空を見上げている首も疲れてきた。ポケットに入っていた携帯電話を取り出し、その場に座り込んで「カシオペア座」について調べてみる。昼間に見た悲惨な光景を払拭してくれるほどの美しい星空に、どこか満たされた気分でいた私は、突如現実に引き戻された。

 

「カシオペアは、エチオピア王ケフェウスの妻で、自慢ばかりする傲慢な王妃だった。娘のアンドロメダと海の妖精の美しさを比べては、娘の美しさを自慢する始末。海の神であるポセイドンは怒り、エチオピアに大災害を引き起こした……」

 

 綺麗な星にまつわる、災害の話。しかも、海の神が災害を起こしただなんて……。

 今、海の神の怒りを買い、災害を起こしたと言われる星を見ているのは、単なる偶然とは思えない。必死で何かを感じ取ろうとした。

 

 人間は何か起きたことに対し、意味を見出そうとする。震災が起きた当初、天罰だと発言した者もいれば、不甲斐ない政治のせいだと言う者もいた。豊かさに胡坐をかいた日本人への戒めだとの声も多く上がった。起きたことに対し、そこから何かを学び取ることは必要だけれど、自然災害に意味を持たせるのは違う気がしてならなかった。地球が生まれた瞬間から地殻変動は起こっているもので、地震や津波は大昔から大陸を襲っている。そこに意味はあるのだろうか。

 

 文明を築き上げ、豊かになった私たちが愚かだとでも言うのか。少なくとも私の知っている三陸の人々は、海を渡り、田畑を耕し、自然に対して尊敬の念を持って共存してきた。カシオペアの様に傲慢な態度で自然と向き合っては、その恩恵を受けることすらできない。そんな人々と知りながら無作為に襲うほど、神は無慈悲な存在なのだろうか。何かへの戒めなのだとすれば、なぜ三陸を襲ったのかを解いてほしい。やり場のない怒りが込み上げてくる。

 

 人間は、海の中では生きられない。空を飛ぶこともできない。気性の荒い山は厳しさを突き付け、優しい大地ですら時折牙をむく。自然はとてつもなく恐ろしい。私たちはその変わらぬ現実を受け止める。

 

 カシオペア座の周りを、いくつもの流星が行き交う。願うことはただひとつ、一刻も早い復興。町、そして人々の胸に、心からの安らぎが戻ること。それしかない。

 

 翌日の昼に石巻を後にし、夕日が沈む頃に浦安へと戻ってきた。まだここにも震災の爪痕が残っている。今回の震災がどれだけ広範囲に渡っていたか、移動の時間と体の疲れが物語るようだった。

 

 カシオペアのその後はというと、死後、天に昇り、星座カシオペア座となる。ポセイドンはカシオペア座が休息することを許さず、海や地平線に沈ませることなく、常に天空を巡り続けさせているのだという。

 

 美しく雄大な海が、津波となって襲ってきたように、カシオペア座は、美しさの陰に潜む、自然の恐ろしさを知らしめているようだった。でも嫌いにはなれない。休息を許されず、天空を巡り続けるカシオペア座。それがカシオペア座に課せられた罰だと語られているけれども、地上から見上げる私にとっては、カシオペア座の輝き続ける姿が頼もしくすら思える。

 常に天空にあるからこそ、私たちはこの美しい星座を見つけることが出来る。影をひそめることなく、私たちの目に輝き続けているなんて、娘の美しさを自慢したと言われるカシオペアにとって、望むべき姿だったのではなかろうか。

 

 休むことができなくとも、常に輝き続けるのならば素敵な星じゃないか! 

 

 震災後、誰に命じられるでもなく、悲しみに暮れながらも私たちは前進し続けている。休息する暇などない。戦後がそうであったように、働いて、働いて、輝くのが日本人だ。

 震災そのものに意味を見出すことは、被災者にとっては「なぜ我が身に起きた」と、不公平だと思わずにはいられないだろう。ただ、この経験により何かに気づき、改めることがあるのなら、大いに向き合わなければならない。何かを悔い改めることかもしれないし、大切な何かに気づくことかもしれない。自然や家族、命など、自分を取り巻くあらゆるものと真摯に向き合う。その思いは、一過性のものではなく、後世に語り継ぐ必要がある。それが日本人のアイデンティティーなのだと。

 

 自分らしさを大切にしたいと考えてきたはずの私が、自分の心の大きな部分を占める故郷を否定して生きてきた。石巻を否定することは、自分自身のアイデンティティーを否定すること。震災が起こるまで、自分のその愚かさに気づけなかった。でも今は、石巻を受け入れられた。それは私にとって大きな財産となった。

 

 これからどのように復興を遂げていくのだろう。微力ではあるけれど、その一端を担う何かを探し続けている。そして、子どもの頃の “誇り” を再び甦らせてくれるぐらいに、石巻には活気のある魅力的な町に生まれ変わって欲しい。

 

 カシオペア座の光の様に、いつまでも輝き続ける町へ。

安海 まりこ

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